あ〜り〜の多幸ぼうる

ドラマチックあげるよ

Disabledを装備する

私が小学校のころ(今から10年以上前)、たしか毎年ある時期に、障害を持つ人の描いた絵葉書を売りに来る人がいた。

 

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よろこびの里 | 長崎県障害者共同受注センター より引用

 

 

べつに、買っても良いし、買わなくても良い。

ホームルームの時間とか、帰りの会のタイミングで来ていたような気がする。

 

どういう人たちだったかなどは、もはや全く思い出せないのだが、

とにかくその絵葉書売りが来たら、

毎年必ず一セット購入していた。

 

5枚程度のハガキが入って、100円とか、破格だったと思う。

 

 

当時の私は、社会貢献の意味なんてよく分かっていなかったし、

そこで払ったお金がどこに渡るのかも、描いた作者のプロフィールも、なんにも分かっていなかった。

(知る由もなかった)

 

 

 

つまり、単純に、その絵が好きで、買っていた。

 

 

 

イラストのテイストはばらばらだが、

朝日の登る海原の風景画とか、

驚くほど繊細な日本画風の花鳥風月の絵とか、

割にシブい。

 

それがなんだか、かっこよかった。

 

そして、筆致のすみずみに"描く喜びそのもの"があらわれていた。

 

 

 

普段は"助けるべき人たち"と教えられる彼らが、

自分にまるでない能力を持って、それでお金を稼いでいる。

 

それは新鮮な感動として幼い私に衝撃を与え、

世界をひっくり返した時に見えてくる思いがけない神秘みたいなものに、ひとりドキドキしていた。

 

 

 

もう完全に忘れ去っていた、こんなささやかな喜びの原体験を呼び起こしてくれたのは、

Diversity In The Arts

www.diversity-in-the-arts.jp

という団体だ。

 

 

いくら勉強したって成果が比例しない、未来が全く保証されないアートというものをこれからも続けていくには、

そして、昨日より少しでも良いものを生み出すには、

まだ何が、足りていないのだろう。 

 

アートの小窓から覗く未来は、途方もなく大きくて、私には到底処理できないように思えていた。

 

そんな時、偶然この団体の広報誌に目がとまった。

 

彼らの中には、言葉を持たない人もたくさんいます。(中略)彼らにとって、何かを表現することは食事をするのと同じくらいに大切なことでもあるのです。

Diversity In Arts Paper 03 Introductionより引用

 

この文章を読んだ時、しかし、

その問いが的外れであることに気づいた。

 

そうか私は、アートをどうにかしようと過ぎていたのだ。

 

 

幼いころ、

アートは、勉強するものじゃなかった。

 

 

 

少なくとも、小学校の頃の私が、毎年必ず買っていた絵葉書に、

勉強によって得られた審美眼なんて全く介在していなかった。

 

 

幼い頃、世の中の仕組みが何一つ分からなかったころ、

大人たちはみんな強敵だった。

理論や経験の勝負では、社会でまるで勝算のない、

圧倒的な"社会的弱者"であったあの頃、

 

言葉で説明できない想いは、

すべて絵に託した。

 

子供は、小さな大人というように、

大人の思う以上にたくさんのことを知っていて、たまに何気ない一言で大人をドキリとさせる。

彼らが無知に見えるのは、それを裏付ける経験や表現手段を持ち得ないだけだ。

 

 

 

大人になって

もはや"社会的弱者"ではなくなった私は

アートがなくても生きて行ける。

アートがなくても、自分を説明できる。

 

 その意味で、私はある種、

アートを卒業してしまったのかもしれなかった。

 

けれど、障害を持つ人たちの多くは、大人になったって"社会的弱者"のままだ。

 

だから彼らは、アートの魔力を失わない。

大人になったら多くの人が"強さ"と引き換えに無くしてしまう、

あの素晴らしい魔法を失わない。

 

 

それが良いことなのか、悪いことなのかということは私には分からない。

 

けれども、いくつの年を重ねても社会的弱者を卒業しない人がいるということは、

アートなんて意味がない、と思いかけていた私に、強烈なパンチを食らわせてくれた。

 

 

このブログで私は、利き手でない方の手である右手を使って素朴なドローイングを描くということをしているが、

もしかしたらそれは、

無意識のうちに

Disabledを装備しようとしていたからかもしれない。

永遠に学習しない、永遠に上達しない右手の中に、未だ残る社会的弱者であったあの頃の面影を見出していたからかもしれない。

 

 

 

 

たんなる思いつきでしかなかった落書き企画に、思わぬところで続ける意味が見つかって、

それがなんだか嬉しくて、天才なんじゃないかと思いました。

 

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◎ほんじつの右手ライティング 2018.5.15

 *1

 

 

 

 

 

*1:

右手ライティングとは?

 

左利きの落書き名人あーりーによる、右手を使ったライティング&ドローイングのコーナー。

 

使い慣れない右手が醸し出すヘタウマの可能性を地道に追い求めていく。