あ〜り〜の多幸ぼうる

ドラマチックあげるよ

OL24歳、アートを買う

f:id:arinkozou:20201101225033j:plain

自宅での開封風景。特装版「パステル」画集(手前)とパステル原画(奥)

2020年も、今日で11月。

寒くて布団から剥がれられない季節がすでに到来したことを感じながら

ヌックリぐぅすか

秋の昼寝にふけっていた、なんてことない日曜日、13時。

 

そのピンポンは鳴ったのである。

 

ピンポーン、といつものトーンで。

f:id:arinkozou:20201101230530j:plain

開封前。小さな画集と額縁を包むにはいささか丁重すぎる梱包で届く。

届いた

熊本から、まちがいない、あの日私が、心拍数のbpmを静かにあげながら

 

なんども頭でシュミレーションした道をたどりながら

飛行機と車を乗り継いで熊本県まで買いに行った、

社会に出て、いや、

人生で初めての、真に身銭を切ったアート購入

 

初めての、二桁万円の文化投資。

 

社会人になっていくらか甘くなった金勘定に目をつむり、

来年までの預金額をなんども頭でシュミレーションしがら

 

おそらくは、来年で良いのだと。

いまは絵の本体を買うのではなく、

手頃な価格の画集を眺めて満足すべきなのだと。

 

冷静に理解しつつも

 

それでもやっぱりあきらめられなかった絵。

 

この絵がわたしのデスクにあることで

日々、理想と現実の間で自意識を失いかける脆弱な精神のまにまに

わたしは文化に価値を感じているのだ」ということを

見たい景色を見るために、高い切符を買う覚悟があるのだ」ということを

感じたことを記しながら生きる人に心からの敬意を示す」という基本理念を

 

思い出させてくれるものは、

坂口恭平パステル画の他にない。(少なくとも前後2−3年は)

 

そう直感したからである。

 

 

とどいたパステル原画の裏には

しっかり「坂口恭平」のサインと

「二〇二〇」の制作年、そして

「野口の楠」という絵のタイトルがサインペンで記されていた。

 

あわせて梱包された、特装版の画集「パステル」表紙にも、

坂口恭平」のサインと

「oct 2020」の制作年月が、ていねいに。

 

 

一般的に、アート作品にとって作者と制作年が明らかであることは重要だ。

そしてそれは、作品を「投資」の1種としての視線から見た場合にとくに。

 

 

今のような鮮明な記憶がないことが何より残念だが、東京に暮らすわたしの祖父母は

わたしが幼い頃、東京の一等地でちいさな画商を営んでいた。

 

休日、「おばあちゃんちに行く」といわれて浮き足立たない子供はいないが、

当時のわたしは「東京のばあちゃんち」に行くことが毎回憂鬱だった。

 

よそよそしいビル街を車にゆられて到着するそこは

仰々しいエントランスを突破しても

これまたはてしなく長い(と当時感じた)エレベーターを登るあいだの沈黙が幼い私の緊張を後押しし

不安もぐいぐい登ってゆくのがやけに怖くて

三十何階だか(もっと低かったかもしれないが、覚えていない)

普段生活しないような高さの地上に身を落とすと

完璧な笑顔と身なりをした祖父母が、わたしたち家族を出迎えるのであった。

 

アパートの中はといえば、幼い子供にとって、おおかた居心地の悪いパーツのみで構成されており

玄関から短い廊下を歩いてリビングの扉を開けるまでに

 

左右にかけられた絵のうんちくをひとつずつ(子供にとって、絵の値段やピカソマティスといったカタカナ語には何の意味もない)

 

棚に置かれたガラス製の何かや(うかつに触って壊すから、子供はとくに注意深い目線で一挙手一投足を見つめられるため居心地が悪い)、

 

最近手に入った絵画のトピックスについてまじまじと

 

最初からクライマックスかのごとき東京の洗礼を浴び終えるのであった。

 

いざリビングテーブルに腰を下ろしても、

出てくるお茶はローズヒップティだし(お茶なのに酸っぱい、その事実が受け入れられなかった子供の私は、ほとんど泣きそうな顔をしていたと思う)

 

いわんや、自分のわかる話題に切り替えたくて「おじいちゃん、」と呼びかけても

 

グランパ、と呼びなさい

 

これである。

 

これには当時、すったまげたことを、今でもはっきり覚えている。

この瞬間、わたしの中の憂鬱は決定的なものへと変化した。

 

グランパって、何。

 

「せっかく遊びに来たのだから、自分のわかる言葉だけで構成された会話がしたい。」

 

そんないじらしい子供のわたしの小さな希望は

「おじいちゃん」という通常間違えようのない語彙すらもここでは「誤ち」だった事実を前に

はかなく砕け散ったのである。

 

「この人とは、『会話』をしてはいけない」

 

幼い私は静かに誓った。

 

そのあとも、都会の高層ビルのつるつるした床のリビングで手持ちぶさたな私は

かわりといっては何だが

近くにあった手頃な紙と色鉛筆で

いとしい飼い犬の絵をかきはじめる。

 

ふわふわしてて、あたたかい、

こことは大違いの、いとしいうちの犬。

 

言葉がダメなら、絵があるじゃないか。

なんせ相手はプロの画商だ。

絵に興味をしめさないわけがない。

 

自慢じゃないが、当時から学校のイベント冊子の表紙を描くなど

なかなかの絵心を持ち合わせていた私は

大人たちの長い宇宙語会議のあいだに

とってもかわいいゴールデンレトリバーの絵を描き上げたのだった。

 

「かわいくできた。やっぱ、天才かもしれない。

この毛のふわふわしたとことか、つぶらな瞳。唇の黒く垂れた皮膚。

いぬを飼ってる者にしか描けないディティールだ!」

 

とかなんとか、

はっきりそのとき言語化できていたとは思わないが

 

とにかくこれなら喜んでくれるに違いないという期待に胸をふくらませながら

おずおずとその絵を祖母に見せたとき。

 

祖母からもらった言葉を、これまた今でもわすれない。

 

「あら、上手ね〜。

この年齢でこれだけ描けるのはあなた、すごいわよ。

ここに、今日の日付とあなたのサインが入っていれば完璧ね。

ほら、この右端に、書いてちょうだい。

 

 

愕然とした。

 

いぬが、ふわふわと描けていることなど、

目が、くりくりと今にも走り寄って来そうな瑞々しさで描けていることなど、

彼女にとってはどうでもいいことだったのだ。

 

彼女が欲していたのは、わたしの絵じゃない。

いわんや、わたしが絵をかけるのだ、という事実でもない。

 

絵の、絵画的保存価値

将来的な、金銭的交換価値のほうだったのである。

 

サインを欲しがるとは、そういうことなのだ。

日付が必要なのは、初期の作品、という事実が、のちの金銭的交換価値のために重要であるからなのだ。

 

今日の日の日付など、わたしにとっては何の価値もない、

何ならいくぶん居心地の悪いだけの、味気ない数字の羅列なのに。

 

 

祖父母はその後、わたしが高校にあがり、美術系の進路をとることを決めるすこし前に

画商の仕事をたたんでしまった。

 

当時、まっさきにデザインの世界に魅了されていた私は

そのことすら、興味はなかった。

だからあの時、部屋に飾っていた絵がピカソのいつ頃の作品だったのか

絵を買うときに見ているのはどういう部分なのか

その後の私が知りたい質問も、すれちがいにすれちがいを重ね、

疎遠となった今はできずじまいとなってしまった。

 

 

こうした経験があってかあらずか、

わたしはいまだにアートの投資的購入に対しては

消極的な姿勢を崩すことができない。

 

もしも大金に化けると信じて買った作品が

購入時点よりも安い価格で市場に出回る結果となったとき

わたしはその作品を、その作者を、当時その作家に賭けた自分の直感を戦略を、

少したりとも嫌いにならずにいられる自信がないからだ。

 

 

今回、わたしが坂口恭平パステル画を20代のふところで突然買ったのは、

将来彼がもっと「偉大な」作家になった際に売りさばくためでも、

分厚い布に被せてタンスの奥に眠らせて、孫の代に「お宝鑑定団」を賑わせるためでもない。

 

彼が、坂口恭平が、この時をピークに名声を地に落としたってかまわない。

いや、そもそも、そんなことは考えられない。

 

わたしが、わたし自身の感性で現代日本に生きる彼をインターネットの荒波から見つけ、その作品に出会い、

その作品の良さをみずからの意思のみで直感した。

 

その事実がなにより、たいせつで愛しいと思ったからだ。

そう思える瞬間が、この先の人生にまた訪れてくれることを願いたい、

その際の目印にしたいと思ったからだ。

 

 

だからわたしは今日、丁重に梱包された包みの中からとり出した、

ようやく届いた、いとしい画集の内側と原画の裏に

丁寧に、力強く、

作家のサインと制作年が記されているのを見つけた時

 

わかってるよ。」

 

と、

すこしだけ悔しくなってしまった。

 

 

わかっている。あなたが坂口恭平であることくらい。

だからわざわざ、熊本まで赴いた。

 

わかっている。この絵が2020年に制作されたことくらい。

日々SNSに投稿される作品の投稿を、この目でちゃんと、確認したから。

 

だから、そんなことは、わざわざ書いてくれなくていい。

あなたの絵は、あなたの絵単体で、充分評価される価値がある。

充分だれかを、わたしを、救っている。

 

アートマーケットに出す日のために、あえて明記したり、しなくていいんだ。

 

わたしはこの絵を、手放すつもりはない。

わたしのなかで、わかっていれば、それでいい。

 

 

こういう幼さ、青臭さ、

人間としての未熟さ、聞き分けの悪さが、

わたしをいつまでも彼とおなじ作家の土俵へ進ませない原因であることくらい、

充分わかっているつもりだ。

 

ただ今日のところは、そんなたわごとで終始することを許したい。

だって、

人類にとっては小さな一歩かもしれないが、

わたしにとっては、人生で初の、二桁万円の購入作品が

この手に届いた日なのだから。

 

====

======

f:id:arinkozou:20201102011328j:plain

あ〜り〜の右手ライティング。「パステル画(野口の楠)」

 

◎ほんじつの右手ライティング 2020.11.1

*1

*1:右手ライティングとは?

 

左利きの落書き名人あーりーによる、右手を使ったライティング&ドローイングのコーナー。

 

使い慣れない右手が醸し出すヘタウマの可能性を地道に追い求めていく。