あ〜り〜の多幸ぼうる

ドラマチックあげるよ

OL24歳、アートを買う

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自宅での開封風景。特装版「パステル」画集(手前)とパステル原画(奥)

2020年も、今日で11月。

寒くて布団から剥がれられない季節がすでに到来したことを感じながら

ヌックリぐぅすか

秋の昼寝にふけっていた、なんてことない日曜日、13時。

 

そのピンポンは鳴ったのである。

 

ピンポーン、といつものトーンで。

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開封前。小さな画集と額縁を包むにはいささか丁重すぎる梱包で届く。

届いた

熊本から、まちがいない、あの日私が、心拍数のbpmを静かにあげながら

 

なんども頭でシュミレーションした道をたどりながら

飛行機と車を乗り継いで熊本県まで買いに行った、

社会に出て、いや、

人生で初めての、真に身銭を切ったアート購入

 

初めての、二桁万円の文化投資。

 

社会人になっていくらか甘くなった金勘定に目をつむり、

来年までの預金額をなんども頭でシュミレーションしがら

 

おそらくは、来年で良いのだと。

いまは絵の本体を買うのではなく、

手頃な価格の画集を眺めて満足すべきなのだと。

 

冷静に理解しつつも

 

それでもやっぱりあきらめられなかった絵。

 

この絵がわたしのデスクにあることで

日々、理想と現実の間で自意識を失いかける脆弱な精神のまにまに

わたしは文化に価値を感じているのだ」ということを

見たい景色を見るために、高い切符を買う覚悟があるのだ」ということを

感じたことを記しながら生きる人に心からの敬意を示す」という基本理念を

 

思い出させてくれるものは、

坂口恭平パステル画の他にない。(少なくとも前後2−3年は)

 

そう直感したからである。

 

 

とどいたパステル原画の裏には

しっかり「坂口恭平」のサインと

「二〇二〇」の制作年、そして

「野口の楠」という絵のタイトルがサインペンで記されていた。

 

あわせて梱包された、特装版の画集「パステル」表紙にも、

坂口恭平」のサインと

「oct 2020」の制作年月が、ていねいに。

 

 

一般的に、アート作品にとって作者と制作年が明らかであることは重要だ。

そしてそれは、作品を「投資」の1種としての視線から見た場合にとくに。

 

 

今のような鮮明な記憶がないことが何より残念だが、東京に暮らすわたしの祖父母は

わたしが幼い頃、東京の一等地でちいさな画商を営んでいた。

 

休日、「おばあちゃんちに行く」といわれて浮き足立たない子供はいないが、

当時のわたしは「東京のばあちゃんち」に行くことが毎回憂鬱だった。

 

よそよそしいビル街を車にゆられて到着するそこは

仰々しいエントランスを突破しても

これまたはてしなく長い(と当時感じた)エレベーターを登るあいだの沈黙が幼い私の緊張を後押しし

不安もぐいぐい登ってゆくのがやけに怖くて

三十何階だか(もっと低かったかもしれないが、覚えていない)

普段生活しないような高さの地上に身を落とすと

完璧な笑顔と身なりをした祖父母が、わたしたち家族を出迎えるのであった。

 

アパートの中はといえば、幼い子供にとって、おおかた居心地の悪いパーツのみで構成されており

玄関から短い廊下を歩いてリビングの扉を開けるまでに

 

左右にかけられた絵のうんちくをひとつずつ(子供にとって、絵の値段やピカソマティスといったカタカナ語には何の意味もない)

 

棚に置かれたガラス製の何かや(うかつに触って壊すから、子供はとくに注意深い目線で一挙手一投足を見つめられるため居心地が悪い)、

 

最近手に入った絵画のトピックスについてまじまじと

 

最初からクライマックスかのごとき東京の洗礼を浴び終えるのであった。

 

いざリビングテーブルに腰を下ろしても、

出てくるお茶はローズヒップティだし(お茶なのに酸っぱい、その事実が受け入れられなかった子供の私は、ほとんど泣きそうな顔をしていたと思う)

 

いわんや、自分のわかる話題に切り替えたくて「おじいちゃん、」と呼びかけても

 

グランパ、と呼びなさい

 

これである。

 

これには当時、すったまげたことを、今でもはっきり覚えている。

この瞬間、わたしの中の憂鬱は決定的なものへと変化した。

 

グランパって、何。

 

「せっかく遊びに来たのだから、自分のわかる言葉だけで構成された会話がしたい。」

 

そんないじらしい子供のわたしの小さな希望は

「おじいちゃん」という通常間違えようのない語彙すらもここでは「誤ち」だった事実を前に

はかなく砕け散ったのである。

 

「この人とは、『会話』をしてはいけない」

 

幼い私は静かに誓った。

 

そのあとも、都会の高層ビルのつるつるした床のリビングで手持ちぶさたな私は

かわりといっては何だが

近くにあった手頃な紙と色鉛筆で

いとしい飼い犬の絵をかきはじめる。

 

ふわふわしてて、あたたかい、

こことは大違いの、いとしいうちの犬。

 

言葉がダメなら、絵があるじゃないか。

なんせ相手はプロの画商だ。

絵に興味をしめさないわけがない。

 

自慢じゃないが、当時から学校のイベント冊子の表紙を描くなど

なかなかの絵心を持ち合わせていた私は

大人たちの長い宇宙語会議のあいだに

とってもかわいいゴールデンレトリバーの絵を描き上げたのだった。

 

「かわいくできた。やっぱ、天才かもしれない。

この毛のふわふわしたとことか、つぶらな瞳。唇の黒く垂れた皮膚。

いぬを飼ってる者にしか描けないディティールだ!」

 

とかなんとか、

はっきりそのとき言語化できていたとは思わないが

 

とにかくこれなら喜んでくれるに違いないという期待に胸をふくらませながら

おずおずとその絵を祖母に見せたとき。

 

祖母からもらった言葉を、これまた今でもわすれない。

 

「あら、上手ね〜。

この年齢でこれだけ描けるのはあなた、すごいわよ。

ここに、今日の日付とあなたのサインが入っていれば完璧ね。

ほら、この右端に、書いてちょうだい。

 

 

愕然とした。

 

いぬが、ふわふわと描けていることなど、

目が、くりくりと今にも走り寄って来そうな瑞々しさで描けていることなど、

彼女にとってはどうでもいいことだったのだ。

 

彼女が欲していたのは、わたしの絵じゃない。

いわんや、わたしが絵をかけるのだ、という事実でもない。

 

絵の、絵画的保存価値

将来的な、金銭的交換価値のほうだったのである。

 

サインを欲しがるとは、そういうことなのだ。

日付が必要なのは、初期の作品、という事実が、のちの金銭的交換価値のために重要であるからなのだ。

 

今日の日の日付など、わたしにとっては何の価値もない、

何ならいくぶん居心地の悪いだけの、味気ない数字の羅列なのに。

 

 

祖父母はその後、わたしが高校にあがり、美術系の進路をとることを決めるすこし前に

画商の仕事をたたんでしまった。

 

当時、まっさきにデザインの世界に魅了されていた私は

そのことすら、興味はなかった。

だからあの時、部屋に飾っていた絵がピカソのいつ頃の作品だったのか

絵を買うときに見ているのはどういう部分なのか

その後の私が知りたい質問も、すれちがいにすれちがいを重ね、

疎遠となった今はできずじまいとなってしまった。

 

 

こうした経験があってかあらずか、

わたしはいまだにアートの投資的購入に対しては

消極的な姿勢を崩すことができない。

 

もしも大金に化けると信じて買った作品が

購入時点よりも安い価格で市場に出回る結果となったとき

わたしはその作品を、その作者を、当時その作家に賭けた自分の直感を戦略を、

少したりとも嫌いにならずにいられる自信がないからだ。

 

 

今回、わたしが坂口恭平パステル画を20代のふところで突然買ったのは、

将来彼がもっと「偉大な」作家になった際に売りさばくためでも、

分厚い布に被せてタンスの奥に眠らせて、孫の代に「お宝鑑定団」を賑わせるためでもない。

 

彼が、坂口恭平が、この時をピークに名声を地に落としたってかまわない。

いや、そもそも、そんなことは考えられない。

 

わたしが、わたし自身の感性で現代日本に生きる彼をインターネットの荒波から見つけ、その作品に出会い、

その作品の良さをみずからの意思のみで直感した。

 

その事実がなにより、たいせつで愛しいと思ったからだ。

そう思える瞬間が、この先の人生にまた訪れてくれることを願いたい、

その際の目印にしたいと思ったからだ。

 

 

だからわたしは今日、丁重に梱包された包みの中からとり出した、

ようやく届いた、いとしい画集の内側と原画の裏に

丁寧に、力強く、

作家のサインと制作年が記されているのを見つけた時

 

わかってるよ。」

 

と、

すこしだけ悔しくなってしまった。

 

 

わかっている。あなたが坂口恭平であることくらい。

だからわざわざ、熊本まで赴いた。

 

わかっている。この絵が2020年に制作されたことくらい。

日々SNSに投稿される作品の投稿を、この目でちゃんと、確認したから。

 

だから、そんなことは、わざわざ書いてくれなくていい。

あなたの絵は、あなたの絵単体で、充分評価される価値がある。

充分だれかを、わたしを、救っている。

 

アートマーケットに出す日のために、あえて明記したり、しなくていいんだ。

 

わたしはこの絵を、手放すつもりはない。

わたしのなかで、わかっていれば、それでいい。

 

 

こういう幼さ、青臭さ、

人間としての未熟さ、聞き分けの悪さが、

わたしをいつまでも彼とおなじ作家の土俵へ進ませない原因であることくらい、

充分わかっているつもりだ。

 

ただ今日のところは、そんなたわごとで終始することを許したい。

だって、

人類にとっては小さな一歩かもしれないが、

わたしにとっては、人生で初の、二桁万円の購入作品が

この手に届いた日なのだから。

 

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あ〜り〜の右手ライティング。「パステル画(野口の楠)」

 

◎ほんじつの右手ライティング 2020.11.1

*1

*1:右手ライティングとは?

 

左利きの落書き名人あーりーによる、右手を使ったライティング&ドローイングのコーナー。

 

使い慣れない右手が醸し出すヘタウマの可能性を地道に追い求めていく。

書評:『アート:”芸術”が終わった後の”アート”』松井みどり

ひさびさにじっくり本を読み、それについての文章をしたためたので

脳みそにうっすら汗をかいた記念として

ここにもそっと置いておこうと思う。

本書はアマゾンでも入手可能だ。

たのしんでいただければ幸いである。

 

アート:“芸術”が終わった後の“アート” (カルチャー・スタディーズ)

アート:“芸術”が終わった後の“アート” (カルチャー・スタディーズ)

 

 

 

 

 

 

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世界は変わるべきか

( 『アート:”芸術”が終わった後の”アート”』書評にかえて)

2018.12.30  あ〜り〜

 

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著書:『アート:”芸術”が終わった後の”アート”』

著者:松井みどり

朝日出版社

2002年2月28日初版第一刷

 

**** 本文 *********

 

 本書では、哲学や社会学、美学などのあらゆる分野を横断的に視野に入れて広く文化を考察していく「カルチュラル・スタディーズ」の方法にのっとり、1990年後半までの近現代の芸術の流行を客観的な筆致で追っていく。本書のなかで、現代まさに起こりつつある美術の潮流を理解するキーワードとしてしきりに登場するのが「ポストモダン」という語である。全五章からなる本文のうち、はじめの第一章は『モダンからポストモダンへ 「芸術が終わった後の芸術」のはじまり』と題され、「モダン」という概念について簡単に解説したのちに、それに呼応する「ポストモダン」という時代がいかなるものであったかを、該当する具体的な作家や「ポストモダン」理論を作り上げた批評家たち自身の名を挙げながら丁寧にひも解いていく。特に、題にもなっている『「芸術が終わった後の芸術」のはじまり』という禅問答のようなコンセプトは、松井氏の主張する現代美術の理想像を理解する上で非常に重要である。つまり、現在我々が一般的にイメージする「芸術」のあり方は「モダン」の時代に確立されたものであり、それら「モダン」の目指す世界観が世界状況の変化から限界を迎えた際に、より現代的な社会に適応する新しい概念として「ポストモダン」とその時代の芸術(芸術が終わった後の芸術)が誕生した、という構図である。そして続く第二章では『表象批判からファンタジーへ 変豹するポストモダン芸術』と題し、第一章で言及した「新しい概念」たる「ポストモダン」さえも、激しく揺れ動く現代社会の波におされすでに古くなり、「変豹」しているのだ、という現実を、サイボーグやロボット、トランスジェンダーといった極めて新しいテーマ(松井氏はこれらの最新テクノロジーの非現実性、シュミレーショニズムを代表して”ファンタジー”と形容する)に触れながら手短に要約している。そして第三章からは、より氏の主張の核心に迫る1990年後半以降のいま独特のムーブメントの実態についてひとつひとつ丁寧に考察している。この章は『リアルなものの探求 「おぞましい」身体、文化多元主義、はかなさの力』と題される。「おぞましい」身体とは、理論や理屈を凌駕する圧倒的な強い印象をもたらす表象についての語であり、1990年以降のまさにいまの時代を包むリアリティとは、モダンやポストモダンの時代に力を持っていた批判理論の限界を敏感に感じとることや、それらの理屈を突破する強い見た目の印象(表象)に逆説的に惹かれる現代的なセンスのことである。また、文化多元主義とは、これまたモダンやポストモダンの時代に進歩的な学問として登場した文化人類学や脱植民地主義といった「新しい概念」さえもが、その後更に過剰に多様化の進んだ現代においては早くも限界を見せ始め、陳腐化していることに感づく現代的なセンスを指す。そして3つめの「はかなさの力」という表現で松井が言い表そうとしているのが、こうしてモダンやポストモダンといった「極めて新しい概念」すらも、驚く程のスポードで陳腐化していることへの強いシンパシーが、現代を生きる若い人々の中では物事の「はかなさ」といった刹那的なセンスとして立ち上がり、それこそが今の社会を的確に捉え自己表現する唯一の切り口なのであるという切実なリアリティである。続く第四章は『美と日常性の再発見』と題され、そうしてあらゆる理論が行き詰まりを見せる社会で唯一信頼に値し、「ホンモノ」「陳腐化しないもの」ということができうる「自らのうちに起こる感情、感性」こそが現代における美の実験場なのであるという認識の広まりやそれに準拠した若い作家の仕事を個別に紹介している。この章では、「ただ生きる事の肯定」や「マイナーを目指す芸術」、未熟なもの、未発達なもの、未成年的な感性など、それまでの西欧的近代の合理性が否定し続けてきたある種「退行的な」スタンスが現在では唯一の拠り所としてフィーチャーされているという極めて最新の動向、まさにいま起こりつつある生ものの感性が次々に登場する。そして結章となる第五章は『「モダニズム」の閉じ行くフィールド、立ち現れる「現代の美術」』と題し、これまでの「現代美術」と一線を画すあらたな意味として「現代の美術」という暫定的な名称のもとに、「現代美術」の時代に生み出された既出のスタイルをも飲み込み、それらをむしろ積極的に再評価し軽やかに引用しながら全く新しい意味を出現させようとする現代人による多様で意欲的な取り組みを紹介している。

 松井は本書の末筆「おわりに」において、モダンの時代を筆頭に、人類の進歩を支えて来た「前衛」という創造的なスタンスを高く評価する旨をにじませながら、同時に、「(作品とのあいだに)批判的距離を置けない芸術は、「前衛」ではない」と述べている。その上で「本当に新しいものだけが快楽を誘う」と主張する。もはや「新しさの担い手」としてはその限界を見せつつ在る「前衛」の実態を潔く認めることで、松井は前衛芸術との間に批判的距離を置こうとし、そこから本当に新しい何かを懲りずに「今」に求めている。その心構えこそが、現代においては「前衛(的なあり方)」なのだ、と言っているように感じた。

 本書を通して、私は「世界は(これ以上)変わるべきか」ということを常に考えていた。しかしそれは、私一人の一存で決める事のできない身の丈を越した大きな命題である。それならば私は、このとりとめのない思考を一度中断し、この現代を包む「はかなさ」「刹那性」を引き受けながら、松井らと共に次の新しい何かを懲りずに試すことに没頭していきたいと思うのである。

 

(2312字)

**** 以上 ****************

 

 

アート:“芸術”が終わった後の“アート” (カルチャー・スタディーズ)

アート:“芸術”が終わった後の“アート” (カルチャー・スタディーズ)

 

 

 

 

星野源はそんなこと気にしない(夢メモ)

今朝、胸くそ悪い夢を見た。

あまりにもリアリティがあって、それでいて徹底的にファンタジーなのだが

その均衡が絶妙に不愉快なのである。

 

 

 

そこはどこかの会社のオフィス。

私を含む新入社員は、入社してまだ3ヶ月程度で、行き場の不確定なやる気と体力を持て余しながら、懸命に日々の業務に追われる。

 

その日は、年に2度訪れる人事査定の日だった。

 

うちの会社はちょっと変わっていて、この重大かつシリアスなイベントを、

全力で茶化す。

社員達の机の上には、さまざまなお菓子の山と、ホッチキス、コピー用紙といった事務用品のうずたかく積まれたストック。

ほとんどハロウィンのような祝祭的なムードが社内を満たす。

これらは単なる気休めではない。

すべては「査定当日に会社のために経費購入した物品の"金額"がそのまま自らの人事評価値に上乗せされる(!)」

というあまりに乱暴でトガった意味不明の慣習のためである。

これらは毎年、最初の人事査定の日の前日に、新入社員にこっそり先輩社員から告げられる。

 

もちろん、後輩達は驚きあわてふためく。

そんな陳腐なルールには乗らない、とシラを切り通しながらも明らかにアウトな企業体質には目をつむる誇り高き"常識人"がいれば、

良心と出世欲のはざまにムクムクと立ち上がる葛藤に悶え、その晩粛々と執り行われた深い晩酌と自己問答の末に、翌朝力の入った退職願を握りしめて出社する現代のサムライ、

一目散に銀行へ向かいありったけの貯金を引き下ろすと、あらゆる部署に備品の欠品はないか確認しにゆく欲望の正直な実践者、

などなど、その行動はまさに十人十色である。

 

対する先輩社員たちも、"その日"を大幅に先回りして自分の可愛い、健気な後輩君だけにこの重大な秘密を教えたりすることは、ぜったいに、ぜったいに許されない。

先輩社員達は互いに互いのモラルを厳しく監視しあっていて、ぬけがけは厳重に阻止されているのだ。

厄介なのは、これらの珍妙かつ規格外の習わしが、不思議な利害の一致でこの会社の社員には好意的に受け入れられ、誰もが強要されているといった不信感なしに心の底から信頼し純粋に楽しんでいる、という点にあった。

 

 

ともかく、そんな訳で、入社3ヶ月目たる私ももれなくその日を迎えたわけであるが、どういう訳か、このことを、前日に聞かされることはなかった。

査定当日、会社に行くと、なにやら同期たちがせわしなく買い物袋を手に会社の内外を往来している。

みんな、活力があって素晴らしいな、などと他人事のように眺める呑気な私の耳に、突如とびこんできた高らかな号令。

「それでは!ただいまより、本年度第一回目の人事査定結果を発表いたします!」

 

私はおどろいた。

その声の主が、

星野源であったからである。

 

何を言っているかわからない方が大半だと思う。

私にとっても、もちろんそのシチュエーションは圧倒的なミステリーであった。

 

だが、このさい、意味不明のイベントが決行されたことへの疑念などどうでもいい。

 

 

星野源が、いる

 

そこに。

うちのオフィスのホワイトボードの前で、

背広を着て、

人事評価ランキング(カラーマジック手書き)の模造紙を持って。

星野源がいる

 

 

「惜しくも最下位となったのは...カナさん!伸びシロしかない!」

フゥーー!パチパチパチ!

恥ずかしそうにぺろりと舌を出すカナさん。

 

いやいや、

いやいやいやいやいやいや。

 

どこから突っ込んだらいいかわからない。

カナさんて、誰やねん。

すると私の隣で順位発表を見守っていた社長がおちゃめな調子でこう言う。

 

いやぁ、星野君!カナさんをウチに連れて来たのは君なんだからねぇ!

この子、ぜんぜん、使えないんだよぅ!たのむよ!

 

星野人事部長はバツが悪そうに、あのさわやかな笑顔で言う。

「あっはっは、すみません。えへへ」

アッハッハッハッハ、ドッカン、ドッカン。

 

いやいやいやいや、

いやいやいやいやいや................................

 

.....えええ〜......   (どん引き)

 

 

さすがに、どん引きである

しかしなんと、カナさんの次に呼ばれたのはなのである。

 

星野人事部長はまたも屈託の無い笑顔で私に言う。

「いやぁ〜、まだまだ、これからですよ!一緒にがんばろう!」

オォ〜!パチパチパチパチ

 

ええ。。。

ええええええ〜〜〜。

 

私の隣にいた社長も、優しい笑顔で言う。

君もちょっと、自己中心的なところがあるからね。もう少し、周りに目を向ける事を心がけてみよう。」

 

はい。それはもう、まさしく私の至らぬところでございまして。

精進致します。

なんだか妙に納得させられ、しゅんとしてしまう自分と、「いやいやいやそんなん言うてる場合ちゃいますやん」と畳みかかる私の心に住む千原ジュニア兄貴。

 

 

いょっ!がんばれ〜〜!

パチパチパチ........

 

それをまた優しく、暖かく包み込む、オーディエンス先輩方の声援。

 

 

こうしてその後も続々と社員の名前は呼ばれてゆき、笑顔と涙で彩られた第一回人事査定は大盛況のうちに幕を閉じようとしていた。

 

と、その前に、

途中ではさまれた途中休憩の20分、私はずっと心に抱えていた違和感の答えを求めて、さりげなく、

星野部長のところへ歩み寄る。

「あのう。これって...いつのまに、評価されていたんでしょうか。

これほど社員の得点に差がつくようなイベントはこれまでの3ヶ月という短い間には、なかったように思うのですが。。」

 

星野部長は困った顔で少し笑うと、あはは、まあね、とかなんとかいって軽くかわす。

ゼロ回答である。

納得のいかない気持ちを飲み込み、そっとその場を立ち去る私のあとを、数秒して、彼、星野源は小走りに追いかけてくる。

そして小さく耳打ちする。

 

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それでも一度は申し出を断る、世渡りの達者なにくい男。どうせ教えてくれることはお見通しだ

 

 

「実は僕が、人事評価として日頃の社員の業務への取り組みを"つけて"て。それが、係数として評価値にかかってくるんです。だけど、そんなのよりずっとデカいのが、前日に教えられたと思いますけど、あの経費購入なんです。あれは買った備品の合計金額が、そのまま数値として上乗せされますから。」

 

 

なるほど、この野郎。

許さねえ。

 

前日になんでか教えてこなかった先輩も、

それを呑気に眺めていた先ほどまでの自分も、

こんな意味不明なルールを喜んで遵守してるおめえたち全員も。

そして、なんだかそれによって結果的に円滑なコミュニケーションが実現されている、この世の不条理全般も。

 

ゆるさねえ。

 

そして、星野源、おめえは、ちょっと、近い。

息がかかっていますけど。

なんか甘い香りしてますけど。

ありがとうございます!!

ほんと、スミマセン!

もっともっと、頑張ります!

 

 

 

 

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なんのこっちゃ。死んで詫びます。嘘です、まだまだ死にたくありません。

 

確かにあれは、不愉快で、どこまでも胸くその悪い、

最大級に悪質で不純度の高い「悪夢」 +NightMare+ そのものだったわけだが

あのふいうちの急接近によって、無理矢理帳消しにされたような気がして、

そこも含めて全体的に超憎い悪夢であった。

なんの戒めなんだろう。

 

 

こんな夢を見てしまったから、朝ご飯をたべているときもずっと、

夢のつづきを見ているかのように「星野源はマジでスゲエ」とぶつぶつ言っていたら

今朝帰省で帰って来ていた妹は「星野源ってぜんぜん好きになれない」とつぶやいた。

 

ああ、わかるよ、その気持ち、

私だって、べつに好きだと意識的に思った事なんてない。

けどな、妹よ、

星野源はそんなこと気にしない

 

奴は、誰に好かれようが、誰に嫌われようが、そんなの全く構わない。

ただ、彼のやり方で今日も表現していくだけなのだ。

そこに、他者の評価なんてものが挟み込まれる余地はない。

 

ああ、だから彼は強いのかもしれない。

あれだけ他人の人事評価に関与しておきながら(まぁ、私の身勝手な夢では)

そのどこか「他者の評価」へ対する醒めた目線

彼を彼たらしめているのであり、

あのしたたかさや図太さ、愛嬌や清々しさを産んでいる。

 

そういうことに、きっと私は気付いていて、

うーん、だからやっぱり適わないなあって思ってしまう。

少なくとも、嫌いにはなれないのだ。

 

私の図々しさも、まだまだ産毛の毛穴の奥の毛乳頭くらいなモンなんだろう。

 

 

いや、なんのこっちゃ。

 

 

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◎本日の右手ライティング(筆ペンイラスト)解説

「耳打ちする星野源

なかなか巧く描けたのではなかろうか。個人的には口元に添える手元からあの恨めしさが存分に醸されていて、満足である。

ちゃっかり頬を赤く染める右の女の愛嬌にも注目。

 

 

※右手ライティングとは、普段左利きの筆者が、「永遠に熟練しない味わい」を求めてその筆をふるえる右手に譲り挑戦するどこまでもユルユルなイラストレーションと、それを支える美学を指す概念の総称である。

 

横浜の天使

 

 

 

今日の本題に入る前に。

ちょっと宣伝を

 

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少し前にセブンイレブンで見つけて、

そのあまりのおいしさと安さ(100円でおつりが来る)に感激したものの、

しばらくショーケースから姿を消していたこちらのいちご練乳氷
が、今日ふと立ち寄ったショーケースに、

再登場していた。!!

 

これは、がんばれる

だって、果汁・果肉11%ですよ。

もう、めっちゃくっちゃイチゴ🍓感じれます。

そして、練乳の甘〜〜い優しさにほんわり包まれます。

それでいて、バニラアイスではなくかき氷なので意外な程にサッパリしていてさくっと完食してしまう。

しかも激安

しかも激安

これはもう、何かの福音だと思ってます。

この世の喜びの数ある山のひとつの頂上を極めてます。

 

欲張りなあなたにこそ、買ってみてほしい。

ちょっと自分を許したい夜に。

そして、二度とセブンのショーケースからなくならないように

一緒に応援していきませんか。

 

 

 

 

 

 

 

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今日、

いつものごとく、さらっとTwitterを漁っていると、

現在世界旅行中のエッセイスト、伊佐知美さんのこんなツイートが目にとまった。

 

というのも、この写真の翼のアートペイント

 

これは、私の記憶違いでなければ、横浜赤レンガのウォールペイントではなかったか。

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Colette Miller's Angel Wings @YOKOHAMA みなとみらい | Tarot Therapist 南咲佳歩® OFFICIAL SITE  より引用

 

調べてみると、どうやらこの翼のペイントをするプロジェクトは

Colette Miller というアメリカのアーティストによるシリーズもので、

日本での最初の作品が、あの横浜赤レンガのものだったらしい。

▼参考▼

エンジェルウィングス 日本の初登録スポットはMARINE & WALK YOKOHAMAに決定!7月28日誕生 | はまこれ横浜

 

現在では、

日本含め世界の様々な場所でこの「翼を描いた壁」がオマージュされているほか、

インスタグラムでの「インスタ映え」を中心に、一大ブームになっているのだとか。

 

 

 

知らなんだ。。。

 

 

 

このGlobal Angel Wings Projectは、

2012年、「天使の町」たるLos Angelesからスタートしたらしい。

 

今でこそ、「インスタ映え」という概念が一般化し、

むしろ「インスタ映えしない」ということにプライオリティを置くユーザーが現れるなど、ひと山超えた感のあるインスタグラムだが、

 

インスタグラムがApple Storeに初登場したのが2010年

ハッシュタグが導入されたのが2011年

ユーザー数5億人を突破したのが2016年ということだから、

(出典:Wikipedia

 

まさにこの翼のプロジェクトは、

インスタグラムというアプリケーションと共に成長してきたプロジェクトなのだろう。

 

 

いつも「キラキラした」流行には一歩も二歩も乗り遅れる私は、

まったくその因果関係に気付く事はなかったが、

 

横浜という町と赤煉瓦の町並みを愛してやまない私としては、

「おや、こんなところに翼があったっけな」と、結構早くから気になっていたのだった。

 

 

その当時は、

あー、

市のローカルなアートイベントで、子供か高校生が描いたものを

消さずにそのまま観光地化してるのかな、

微笑ましいな。。。

などと思っている程度だったので

 

それがまさか全世界をジャックする一大ムーブメントの一端であるということに

純粋に驚いた。

 

横浜、さすがの港町。

今も変わらぬ文化の玄関口である。

 

 

この赤レンガ倉庫のある一帯は、文化系フェスであったり、博物フェス、食の博覧会、音楽イベントと、定期的に愉しいイベントが開催されている。

ここへくるたびに、その近隣の海沿いや公園のあたりを散歩するのだが、

あのどこか孤独な開放感、広い海へ臨む景色の醸す郷愁、

そしてとりわけ日の落ちた後の水際に反射して、いっそう輝きを増すビル群や船のキラキラした明かりと湿った夜風は、

言葉にしがたい独特のポエジーで満たされている。

 

www.youtube.com

colette氏のTEDムービー。

今晩の入眠動画はこれに決まりだ。

 

 

 

 

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◎ほんじつの右手ライティング 2018.6.16

 

左利きの筆者が、右手を使ってユルいイラストを描くコーナー。

ブルブル震える筋肉が絶妙な風合いを実現している。

【連載企画】絵描きOL小鈴キリカのインスピレーション・フロム・ミュージック

おばんです。

さてさて、水曜日の夜がやってまいりました。

 

 

夜食を食べるか悩み苦しむ

午前1時の夜更かしなフレンズ達へ捧ぐ!

 

 

絵描きOL小鈴キリカの、

インスピレーション・フロム・ミュジック〜〜〜〜〜!!!

 

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小鈴キリカ (@ksz_kirika01) • Instagram photos and videos

 

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本コーナーは、毎週水曜日※に

音楽愛好家でもある小鈴キリカ氏が曲をひとつセレクトし、

の歌詞や世界観からインスピレーションを得て一枚絵を描きあげる

という無敵のコンセプト企画。

  ※水曜日というのは、おおむね27時くらいまであります

 

 

 

”歌もの”曲の良さと言えば、なんといってもメロディーラインに加えて歌詞を味わう事ができるという点。

しかも、その解釈は人によってまちまち

子供の頃に聴いた曲が、大人になってまったく違う意味で新鮮に聞えてくるという経験は誰しも一度は経験があるはず。

 

そんな無限の可能性を秘めた”歌もの音楽の解釈”を、

キリカ氏の音楽的センスと美的センスに託して

イラストレーションにしていただこうではないか!

というパワープレイ企画。

 

 

今回は

さくっと。

あなたをふんわり脱力させちゃう、こんな一曲を用意してみましたよ!

 

Ready GO!

 

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song1  空洞です

空洞です

空洞です

  • provided courtesy of iTunes

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illustration by KIRIKA KOSUZU

ぼくの心をあなたは奪い去った
俺は空洞 でかい空洞

 

この、独特の気配。

とってもユニークな曲のサウンドに負けず劣らず、

見事にその不思議な浮遊感をイラストにしてくれちゃってます。

ドラえもんに出てくる、土管の中で遊ぶような。

はたまた、もっとミクロな視点で、

血管を流れる赤血球たちのふわふわとした流れを見ているような。

なんだか、小さい頃に感じていた未知なるものへの好奇心が

むくむくとよみがえるような感覚。

 

空洞の、その中には何が詰まっているんだろう。

心を奪い去った、その後に残る空洞。

そこにあるものは、果たして、

満ち満ちた悲しみか、寂しさか、切なさか、

それとも

ただひたすら空洞が存在するのみなのか。

心は目に見えないからこそ、

それが奪い去られたときに何が残るのか、

妄想をはじめたら止まりませんね。。。 !

 

 

 

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てなわけで

あたまをスッカラカンにしてお届けしましたー!

 

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私も本日、来たる夏に向けてサンダルを調達しました。

メッチャ軽くて、歩きやすい。

速乾性だから、これからの梅雨の時期にも大活躍。

靴屋のおばちゃんの商売トークの巧さに惚れ惚れして、

速攻で購入してしまいました。

靴でQOLは急上昇するってこった!

 

 

アデュオス!