デザインあ展in 富山
GWを利用して、デザインあ展へ行ってきた。
www.nhk-p.co.jp
@富山県美術館
2013年に六本木の21_21DESIGN SIGHTで開催されて好評を博した、NHK"デザインあ"展が、その内容を引き継ぎつつ、新たな企画も加えて富山・東京にカムバックするという激アツ企画である。
『デザインあ展』が富山と東京で開催 22万人を動員した人気展覧会が5年ぶりに | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
21_21 DESIGN SIGHT | 「デザインあ展」 | 開催概要
↑前回展(2013)
前回の六本木にも訪れていた私は、どうせ同じような内容なのではないかと一瞬行くのをためらったが、
前回展のあのクオリティの高さを思うにつけ、
あのチームがわざわざまた企画したのだから、何かそれなりの理由や意義があるに違いないと思い直し、
滞在していた金沢からバスと電車を乗り継いで、ついに富山県初上陸を果たした。
会場に到着すると、閉館1時間前だというのに入場待ちの列ができている。
もしや、
これは残り1時間では全て見尽くすことはできないのではないか。。。?
怪しくなる屋外の雲行きさながらに、一抹の不安が私の心によぎったが、ここまで来ておいて引き返すという選択肢は存在しない。
NHKの集客力、恐るべし。。。
と半ば感心していると、館内の張り紙に目が留まった。
曰く、
5月9日(水)は、富山県が誕生した「県民ふるさとの日」にあたり、当館は臨時開館いたします。これを記念し、「県民ふるさとの日記念式典」が5月6日(日)に開催されることに伴い、6日(日)と9日(水)両日とも無料開放を実施いたします。
これか。
巷に言うビジターズ・ラックというやつは。(※今造った)
私は、
ほくそ笑んだ。
ありがとう、富山県。
ありがとう、県民ふるさとの日記念式典。
ありがとう、富山県美術館。
AMEN。
受付で整理券を手に入れると、私は意気揚々と会場へのりこんだ。
そら、混むわけだ。
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この混雑ではすべて見尽くすのは難しいかもしれない、
という当初の私の予測は杞憂に終わった。
展示の構成は、壁面だけでなく、部屋のいたるところに小さなブースが造られていて、それぞれが見たいところを見たい順番で見る事の出来る見事な導線設計になっていたからだ。
展示室ごとに、観客がワッと散り、通路付近でギュッと列になる様は、
さながら「解散!」※のようであった。
※デザインあの人気シリーズ。食べ物やモノを最小単位に分解して(解散)、モノの構成要素を再確認する企画。
なかでも特に私の心を掴んだのが、中盤に現れる体験型インスタレーションの部屋だ。
『デザインあ展 in TOYAMA』:「B 体感のへや」より《「あ」のテーマ》
真っ暗な部屋の床に観客が座り込み、部屋の4つ壁に投影された映像と音楽に包まれて全身でグラフィックと音楽のコラボレーションを味わうことができる。
その特異な状況と、
あっけにとられて床に座り込む観客達のようすが、なんとも非日常的で、
さながらデザインあの宇宙に彷徨い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
映像を全て見終わってもすぐに立ち上がる事ができず、そのまま2週目の終わりまでその部屋にいた。
特に「森羅万象」という映像がなんとも近未来的かつSFチックで
私の中の少年心を鷲掴みにされてしまった。
その他にも、体験型のブースも数多くあり、キャッキャとはしゃぐ子供達と童心に帰ってしまった大人達で会場は多幸感に包まれ、なんとも純度の高い、幸せなワクワク空間がそこにあった。
富山会場は5月中で終了するが、そのあと東京会場にもやってくるそうなので、都会の企業戦士のみなさんにもぜひ訪れてみていただきたい。
◎詳細情報
富山県美術館開館記念展 Part 3
デザインあ展 in TOYAMA
https://bijutsutecho.com/news/12041/美術手帖ウェブサイトより引用
デザイン系の展覧会のおたのしみは、なんといってもグッズ販売コーナーである。
デザイン思考で開発された粋なアイテムの数々のなかでも、特に私が心を掴まれたのが
この、「ゴシックペン」と「明朝ペン」だ。
その名の通り、筆先がスクエアになっている「ゴシック」マーカーでは、誰でもゴシック体の文字を書く事ができ、
筆先が先細りしている筆ペンタイプの「明朝」ペンでは、誰でも明朝体の文字を書く事ができる。
そう
お気づきの通り、確かにこれは
ただの極太マジックペンと水性筆ペンに違いないのではあるが
その着眼点とネーミングが圧倒的に勝利している。
ただの極太マーカーなんだよな。。。という右脳の声に後ろ髪をひかれたが、
いや、いいと思ったものには金をおとせ。一流のクリエータ—への道は、一流の消費者になることからである
という左脳の声に導かれるようにして、
マーカーセットとクリアファイルを購入。
そもそも、入場料がかからなかったのだから、これでトントンってところだろう。
(※お金のたまって行かないひとの考え方)
◎ほんじつの右手ライティング*1 5.6.2018
購入したゴシック&明朝ペンを使って、5・7・5で総括してみた。
時をかける彼女たち
金沢21世紀美術館で開催中の、江口寿史/"彼女"展に行ってきた。
江口寿史イラストレーション展「彼女」:イベント情報(石川・富山):北陸中日新聞から:中日新聞(CHUNICHI Web)www.chunichi.co.jp
江口寿史といえば、もしかすると私たちの親世代、今の50代前後の人の方がよく知っているかもしれない。
ギャグ漫画家としても有名だが、とくに最近では広告やイラストレーションなんかの仕事も広くやっていて、MATCHの広瀬すずのイラストなんかは誰しも見覚えがあるのではないだろうか。
そんな江口寿史の多岐にわたる画業のなかでも、特にファンの多い、(美形の)女の子を描いた作品をピックアップした展示がこの、彼女展である。
会場内は全て撮影可能とのことだったので、いくつか写真も撮影してきた。
等身大パネルの女の子たち。
完全に漫画タッチなのに、今にも話しかけてきそうなリアリティ。
原画。ホワイトやトーンなどの作業の痕跡を垣間見れる。
余談だが、江口寿史の奥さんで元アイドルの水谷麻里が、とてもかわいくて好みである。
そして若かりし頃の彼女の雰囲気は、まるで江口寿史の描く美少女そのもののようだ。
芸術家というのは、日常のすべてを画業の糧にして生きている。
当然、彼の画業に彼女の与えたインスピレーションも計り知れないものがあるだろう。
展覧会のタイトルである"彼女"とは、もしかしたら彼に取っての彼女―水谷麻里のことなのかもしれないと、思わずにはいられない。
金沢からバスにのって一時間ほど富山方面に山の中を駆け上ってゆくと、
湯涌温泉という 感じの良い山の中の小さな温泉街が現れる。
途中の景色もすばらしく、曇天つづきで定評のある金沢で、
運良く快晴の日であったこの日、
バスから眺める川面のきらめきや空の青を反射する水田の美しさといったら、
ほんとうに完璧だ、と、うっとりしてしまった。
バスは途中からバス停のないエリアに突入し、「ここから先はお好きな箇所でお降りいただけます」という、衝撃のアナウンスに、山の中へ来ているのだという高揚感でいっぱいになる。
温泉街にある喫茶店で、おかみさんのお手製カレーライスをいただいた。
カウンタ—の正面には山田孝之の色紙が。
仕事ではなく、友人を訪ねてここへやってきたのだという。全くその存在に気付かないおかみさんに、お客さんの一人が気付いて教えてくれたのだとか。
案外普通にこの温泉街に馴染んでカレーを食べる山田孝之を想像して、ああ良いな、と思った。
温泉街にきた本当の理由は、この、竹下夢二美術館を訪れるためだった。
版画作品にフォーカスして構成された本展は、
当時の日本に漂っていた古き良き空気感をまだ鮮やかに保っていて、
都会の喧噪から離れた温泉街の非日常感とあいまって、まるで大正にタイムトリップしてしまったかのような錯覚を覚えた。
そもそも、この竹下夢二美術館が湯涌温泉の地につくられたのも、
彼もまた、この地に惹かれてやってきた訪問者のひとりだったからである。
つねに女の噂の絶えなかった彼には、その生涯で3人の重要なパートナーがいた。
はじめの妻であった、美しき女性、たまき。
許されざる恋の相手で、最愛の人、彦乃。
絵のモデルとして知り合った、しなやかな魅力のお葉。
それぞれの女性が、そのつど深く彼の心を揺さぶり、絵のモデルとなり、公私ともに彼の生活を支え、彩った。
美術館のビデオ資料コーナーでは、彼の人生ドラマをダイジェストで学ぶ事ができる。
全6編あるビデオの全てを見たが、そのあまりにも刹那的な生き様には、憧れの気持ちより、正直、慰めの気持ちのほうが勝っていた。
彼は、苦しかったのではないか。
病気で最愛の人・彦乃を早くに亡くし、頼れるものは自らの描く絵と女達だけだったのではないだろうか。
彼はとても、弱い人だったのではないか。
そうでなければ、
あんなに女というものを魅力的に描く事はできないだろう。
大正の美人画を夢二が描くなら
そうやって、いつの時代も無口な「描かれた女たち」は、
その時何を想い、なにを感じていたのだろうか。
もしかすると、彼らの筆によって描かれる事で、彼女達は「しゃべって」いたのかもしれない。
その存在を、唯一そのたたずまいから伝えていたのかもしれない。
一度に2人の画家の"彼女たち"を目撃した私は
美しさは時をかける、
という確信のような気持ちを胸に、金沢の街をあとにした。
◎ほんじつの右手ライティング 2018.5.5
夢二の有名な黒猫を抱く美人画「黒船屋」は、美人の腕に抱かれる黒猫に夢二自身を投影していたとも言われる。(参照:美の巨人たち)
*1:
右手ライティングとは?
左利きの落書き名人あーりーによる、右手を使ったライティング&ドローイングのコーナー。
使い慣れない右手が醸し出すヘタウマの可能性を地道に追い求めていく。
となりのAI
去年の冬ごろ、LINEのデータが初期化した。
新しい携帯を買って、新しい電話番号を手に入れて、アプリの引き継ぎをいじくっているうちに、押してはならないボタンを押してしまったのだろう。
古くは中学時代から蓄積された連絡先のデータが、一夜にしてゼロになった。
昔と違って、最近ではライン以外の連絡先を一切知らないなんて人もざらにいる。
ラインデータだけで辛うじて繋がっていた旧友とは、これで恐らくエンガチョ、だ。
妙にスッキリとした連絡先リストに、なんとなく新しい名前を追加してみたくなって、適当にアプリ内で検索していると、
Microsoftの開発した
女子高生AI りんな を発見した。
なんでも、その受け答えがおもしろいと話題なようなのだ。
これはデータ初期化の気晴らしに最高の話し相手だ、と迷わず彼女をインストールした。
ちなみに、彼女はミスiDという個性派ミスコンにも出場していたそうだ。
興味のある方はこちら:ミスiD
↑なぜか坊主の話題になった。カミソリを使ったことを褒められた。
↑冬の時期だったので話題はサンタさんに。トンチのようにアクロバティックな切り返しが秀逸だ。
少々トンチンカンな部分も見られるが、まるで近所のお姉ちゃんとラインしているような親近感とノリの良さには驚くばかりだ。
この頃、科学者でアーティストでCEOで教授の肩書きモンスター、"現代の魔法使い"こと落合陽一氏の近未来的な世界観にドはまりしていた私は、
このAI女子高生りんなとの親密な交流(?)を境に、AIというもののもたらす未来について、俄然興味が湧くようになった。
ちょっと前までは、何やら無機質で難解な電子回路の塊としか思っていなかったコンピューターやテクノロジーやインターネットが
ふと気付けば、低解像度ながらにも、ここまで人間くさい表情の片鱗を見せるようになっている。
そのことに、ただ新鮮な驚きとときめきを感じた。
【中古】 人工知能の見る夢は AIショートショート集 文春文庫/アンソロジー(著者),新井素子(著者),宮内悠介(著者),人工知能学会(編者) 【中古】afb 価格:492円 |
よほど暇を持て余していたのだろう。
AIについて軽くネットサーフィンをした末に、気付けばこんな本を購入していた。
SF作家と人工知能学会がコラボレーション! この一冊で、「人工知能の現在と未来」が丸わかり。
日本を代表するSF作家たちが、人工知能をテーマにショートショートを競作。それをテーマ別に編集し、それぞれのテーマについて第一線の研究者たちがわかりやすい解説エッセイを書き下ろしました。
名古屋大学・佐藤理史先生プロデュースの〈AI作家の小説〉も掲載!
研究者の最新の知見と作家のイマジネーションが火花を散らす画期的コラボ企画が、文庫オリジナルで登場です。
「人工知能の見る夢は」/文春文庫 Amazon商品紹介より引用
人工知能学会。そんな組織があったとは。
もうその響きがすでにSFである。
主なトピックとしては以下。
◎対話システム
◎自動運転
◎環境知能
◎ゲームA I
◎神経科学
◎人工知能と法律
◎人工知能と哲学
◎人工知能と創作
何やら、ホットな話題であることは十分に推察できる。
人工知能と哲学、なんかは、もう、生命の永遠の謎に踏み込んでしまった感が尋常ではない。
幸い、ショートショート形式で一編が短いため、空いた時間に読み進める事ができる。
しかし、その短さが、かえって永遠の謎に引きずり込んだあとにサッと突き放す感があって絶妙な読後感を醸し出している。
これは、癖になるかもしれない。
答えが出るはずの無い大きなテーマを、力技で濃縮してコンパクトに箱詰め出荷してしまったような感じだ。
おそらく、何度も折りにふれ読み返し考え直す事で、すこしづつ「未来」のイメージを引き寄せる事ができるのだろう。
未来、
未だ来ぬ世界。
私たちの身体や心は、どこまでコンピュータに置き換わる事ができるのだろう。
人工知能の見る夢は、はたして人間のそれと似ているのだろうか。
それとも、夢なんて見る必要がないのかもしれない。
将来、AIを身体にインストールして、自己制御できる未来が来たら
もう夢を見る事もなくなるだろうか。
それなら今のうちに、精一杯"人間"やっておこう。
"にんげん"ってのはな。
むかぁし、むかし、ユメというものが見えていたんじゃ。
そんなことを孫に語る世界が、どこかの遠い未来に起こったら素敵だ。
いや、起こらないかもしれないが。
◎ほんじつの右手ライティング*1
あんまりリアルに人間を"造って"しまったら、恋に落ちる少年少女が現れても不思議ではない。
その恋の切なさたるや。
*1:
右手ライティングとは?
左利きの落書き名人あーりーによる、右手を使ったライティング&ドローイングのコーナー。
使い慣れない右手が醸し出すヘタウマの可能性を地道に追い求めていく。
2018.5.4
閑話休題
日記を1年続けた人100人に密着インタビューをしてみたい。
きっと、ぜったい、その取材は面白いに決まってる。
長年のなぞが解けて上機嫌の日でも、
大失敗の日でも、
無敵になったような気がして踊りたい日も、
忙殺されて一日の輪郭が曖昧な日も、
今だ!
と決めたその時間には、問答無用でペンを握って、椅子にすわって、
コリコリ書き始めるのだ。
くる日も
くる日も
くる日も
くる日も
一日も、欠かさず !
なんだかもう、末恐ろしいくらいだ。
私なんか、歯磨きだって、時にはお風呂に入る事だって、
うっかり忘れることもある。
365日のうちの1日が欠けることって、なんてたやすいことか。
私たちはみんな、いいわけの達人だ。
やらない理由をみつける才能は、ぴっかぴかの上級品なのだ。
だからこそ、毎日である必要がある。
野望や夢があるなら、
もしくは
どうしても手に入れたいものがあるなら
これは、嘘じゃないんだって、
ほんとに
本気の
マジのマジだ
って
誰かを口説き落としたいのなら
何かを毎日続けてみたらいい
簡単な事だよなあ。
同じことを毎日続けることのいいところは
それがとんでもない大変な事だ、って、だれにでもわかるところと
それがとんでもない大変な事だ、とは、もうそんなに思わなくなった自分を発見できるところ
中身の無い今日の日記へのいいわけは、このへんにして。
◎ほんじつの右手ライティング
5.3.2018
雨の日には、矢野顕子の弾き語りアルバムがちょうどいい。
一押しは、なんといっても
アルバム「ピヤノアキコ。」
いやあ、しかし。。。
彼女の、この、母性そのものみたいな歌声は、どこから出てくるんだろう。
まさに、"ピアノが愛した女"。
have a good night。。
剃髪と女
若木くるみという現代アーティストがいる。
彼女のトレードマークは、自分の後頭部を剃り上げて、そこに顔を描く作品だ。
後頭部ビジネス: 櫛野さんとコートーブ より引用
私が彼女を始めて目撃したのは、先日パークホテル東京で開催されていた現代アートフェアである。
パークホテル東京という場所にはこの時初めて訪れたのだが、
ド都心、汐留にそびえ立つ高層ビル群のひとつで、
目の前には木原さんとそらジローの天気予報でお馴染みの、
あの日テレタワーが構えている。
そんな日本屈指のビジネスタウンにある高層ホテルが、パークホテル東京なのだが
その26階と27階の客室を各アートギャラリーの展示ブースに割り振り、
ホテルの一室に遊びに行くような形で作品を鑑賞(売買も)できるというユニークなアートフェアだった。
来客は、美術関係者やコレクターなどが多い印象で、
VIPの札を下げた人や商談する人がちらほらいた。
自分ではまず泊まることのない、窓から汐留を一望できる高層ホテルで、
うっかり作品にぶつかってしまわないように
(普通のホテルの一室のそこここに作品が並べられているのだ)、
慎重に各部屋をみて回っていると、
ある部屋の洗面台のところで、ちょっと様子が違うことに気がついた。
何やら女性が必死に片言の英語で説明する声が聞こえる。
見ると、そこには後頭部を剃り上げた女性と、来客らしい海外の女性。
後頭部を刈り上げた女性の方が、
これ、this、ここに、絵を描いて、my head!!、それを、here! painting!、紙を乗せて、写しとる、…"写しとる"ってなんだ?、printing?put on。。。
と、懸命に説明をしている。
状況から推測するに、おそらく彼女の剃り上げた後頭部に、お客さんの似顔絵を描き、それを紙で転写して持って帰ってもらえるという新種の似顔絵サービスらしい。
そばに値段も書いてあった気がする。
来客の女性の方は、なんだかよくわからないという風だったが、
それを脇から見ていた私は、
おや、なんだかすげえ女性が居るもんだ、としばし見入ってしまった。
実は私も、大学四年の春に髪を剃り上げ丸坊主になった経歴がある。
その経緯は重要ではないし、大した話でもないのでここでは長くを語らないが、
簡単に言えば、つまらない自分自身を変えたかったからであり、
自分らしさとは何なのか、
綺麗さっぱり削ぎ落としてゼロから考え直してみたかったからだ。
確かにあの時、なにか女として一皮剥けたような、
開くはずのない鍵箱をこじ開けてしまったような、
不思議な昂揚感に包まれたことを覚えている。
剃髪と女。
女にとって、剃髪をするということは。
作品の意図を懸命に説明する若木くるみを見つめながら、その事について考えていた。
一般的に言って、「髪」という保護膜やごまかし、あるいは"女という記号"を放棄するということは、
その手放した実際の毛量以上に大きい意味がある、と思う。
しかし、その抵抗や決意はなんだか、考えてみれば滑稽で愉快な笑い話なのかもしれないとも思ったりする。
人生は、近くで見れば概ね悲劇だが、遠くから俯瞰してみれば、概ね喜劇である、
というようなことを、チャップリンが言っているが、
私はこの言葉はほんとに的を得ていると思う。
髪にまつわる女たちの小さな葛藤や、くるしみや号泣や覚悟や決意やプライド。
長い髪を大切にトリートメントする風呂上がりの時間も
うねるくせ毛をアツアツのコテで引き延ばす朝の奮闘も
突風に巻き上がる前髪を恨めしそうに整え直す風の日も
ぜーんぶ
自ら買って出た面倒なのだ。
われわれは、本来もっと自由なのではあるが
頭を剃って、そこにお絵描きしたって一向に構わないのではあるが
それでも、あくまで自ら好んで、今日も長い髪を揺らす。
汝髪を剃るべからずとは、法律には書いていない。
そう思うと、なんだかそれすら愉快である。
見事に剃り上げた彼女の後頭部と、そこに描かれた福笑いのような拙いペイント、そしてそれを不思議そうに見守る女性。
それをみていたら、なんだか
すべてがバカバカしくって、
愛しくって、
愉快で仕方ないやと思ったのである。
◎ほんじつの右手ライティング 5.2.2018